其仙流の歴史 

                   悠久の流れの中に本物の奔流を見出す


【其仙流の源流】

 

其仙流の始まりの始まりは三皇五帝の一人「伏犠」がその一人で、その他の三皇五帝の仙人も関わっていた様です(神農など)、恐らくその他の仙人も関わっていた様ですがあまりに歴史が古く又口伝で伝わっている為に定かでない所もあります、ですが伏犠が創始者である事は代々脈々と口伝で伝わっているので其仙流の源流の歴史は「五千年」以上となります。

 

「陰陽論」を始めとし「造化論、三才論」など様々な理論や説を自然の理から見出し、その法則を確立させた事がその始まりです。

 

これが人の人生や生命、運勢にも関りがあると見出し、より研究、研鑽を積み重ね「易」の概念を作り上げました。

 

伏犠や神農などは類稀なる「自然を海より深く感じ、深淵で玄妙に考察できる」まこと類稀なる

「器(才)」を持っていた様です、自然の理を見出し、人の人生との関りを詳らかにし、様々に生々発展して行ったそうです。

 

ここから夏の時代の紀元前1900年頃に至り、又紀元前1600年頃の殷の時代、そして紀元前1046年の周の時代までの段階に至るまでに数度に渡り秘伝や理論などの一部が失伝してしまった経緯があります。

 

春秋戦国時代までの時代やその後も古代志那の国は「一時の平安を手に入れては革命の連続を行います」それ故に「焚書(他国の思想や国の思想に合わない事を記した書物や書簡、竹簡、木簡などを焼き捨てる事)」が頻繁に行われていました。

この「焚書」の時に、それを伝える人(伝承者)も同時に処罰された事もあったそうです、それ故に其仙流の先人が「焚書の処罰の憂き目に遭う」という事件も何度かあったそうです。

 

その時に先代が弟子に全てを教える前の段階で処罰を受けてしまい、弟子に全てを教えられなかったという事が何度かあった様です。

 

ですが、その後に弟子が更に研究研鑽し秘伝を掘り起こし形を成し復活させたものもあれば、不完全なものに止まっているものもあります、ですが新たな発見をして新しい占法や開運法、方位学を生み出しもしました。

 

一方この、春秋戦国時代はそれまでの占い業界とは様相が違っており、それまでの「占い」はごく一握りの占い師がするというもので世間一般には広がりを見せておらず、市民権が有るには有るが、一般人がやるという程の事ではなかった、しかし、貴族や王族など一定の地位のある人たちが占い師に個人的な事を尋ねる事も然る事ながら、政治や軍議、軍略に至るまでの事を尋ねるという事態へとなりました。

 

ここから「占い業界」が一変します、一部の人達のものという認識の占いが「生業として確立出来る」という認識が世に広まり、皆こぞって貴族や王族、高官にお抱えにしてもらう為に占い師を目指しました、又「占い」でお金儲け、名声を売り地位を得ようと考える者も出て来ました。

 

その様な時に五行論をはじめ様々な説や理論が考えられ、又様々な占法も生み出されました、又様々な占いの流派や思想家も出現します、真剣に考え新しい占法、方位学を生み出そうとした者もいた様ですが、中には「過度な宣伝文句を謳う、嘘を吹聴する、在りもしない理論や説を唱える者、元々存在していた正しい理論を壊す者、歪曲する者まで出て来る始末・・・

 

それ故に当時の其仙流の秘伝を世に広く教えると「純粋性が失われ曲げられる」と悟り、当時の伝承者がこの自然の理や理論、様々な説、又各占法や開運法、方位学などを体系化し一般に広めずに秘かに一子相伝で伝えて行こうと考えたのです、それまでも一般に教える様な事はしなかったものの、一子相伝とはしていなかったので、この春秋戦国時代に初めて「一子相伝」と正式に決め、流派の名を「其仙一門」としたのです、ですから「其仙流の源流は五千年の歴史」ですが「其仙流を名乗ったのは三千年前から」という事です。

 

春秋戦国時代に流派の名を其仙流とし一子相伝を正式に決めた伝承者は「華翠老子(かせんろうし)」という人物で、その才はそれまでの先人達の中に於いても限りなく伏犠に近い才能があったそうです。

 

因みに現代の其仙流の当代は「178代目 北町吾八」で弟子ともども現代でも秘伝の研究研鑽を積み重ねています、この「178代目」というのは「伏犠から華翠老子の師匠までを含んでいません」あくまで「華翠老子」から数えてという事です。

こうして、其仙流が起こり、これより後はそれまでより一層秘かに受け継がれる事となったのです。

 

それから時代が経ち「清の時代」、日本では江戸時代の辺りでは、其仙流内に於いてちょっとした「憂い」が出て来ました、「このまま行くと占い業界が曲がって行く、偽物が本物となり本物が偽物呼ばわりをされる」という事は昔からあった事ですが、ここに来て「其仙流の精神を受け継ぎ、秘伝を伝授出来るだけの人物」が極端に少なくなって来ているという事でした。

 

こうして当時の伝承者は自国内で継承者を探しつつも他国の者に継承者を求める様になりました、そして明治時代に現在の兵庫県で176代目伝承者の「玄明老子(げんめいろうし)」と後の177代目継承者の「圭堂老子(けいどうろうし)」の運命的出逢いがあったのです。

 

この177代目「圭堂老子」以降「其仙流」は日本人が継承する事となります、「圭堂老子」は幼い頃から天賦の才があり、文武両道で「神童」「麒麟児」と呼ばれ、生まれ付きの「千里眼」の使い手だったそうです、そんな「圭堂老子」のエピソードを一つ紹介しましょう。

 

時代は昭和初期、世界的に暗雲が立ち込める雰囲気(第二次世界大戦)を呈していた時、占いに因る詐欺被害(高島事件など)が政府高官の耳に入る事となります、それまでの「占い」も明治時代や大正時代に何回か国に因る廃止令や許可制度など「廃止論、管理論」などが議論されて来ました、実際明治時代1870年には「陰陽師廃止令」を国が正式に布告しており、1872年には陰陽師は迷信であるとし一般人への流布を禁止する「禁止布告令」が出されています、その後1877年には占い全般を禁止する「占い禁止令」を布告しています。

 

そんな流れが底流にある時代、日本が戦争に巻き込まれるかもしれないという時に世間では「占いに因る被害」が出て来る事に当時の政治家、政府高官などは「あるまじき事件」と認識しており、これを機に徹底定的に九星気学や姓名判断、易、人相、手相など占いを廃止させようと水面下で動きます。

 

「圭堂老子」のお家はそもそも「平安貴族」の家柄で、その伝手で政府による「占い完全禁止」の動きを耳にしたようです、「これでは本物迄禁止され、滅びかねない」と思い、この政府の動きに待ったをかけるべく水面下で動きます。 

その結果、当時の内務卿と京都のある料理屋で秘密裏に会う段取りを付け、「占いを禁止」する事を取りやめる様に提言します。

 

その時に当時の内務卿は中々首を縦には振らなかった様で、致し方なく圭堂老子は内務卿の前で「千里眼やその他の其仙流の秘伝の一部」を披露し、その上に其仙流の秘伝の原理を説明し、その秘伝書を内務卿に渡し、「占い禁止令の是非」を問うたそうです。

 

内務卿は「まさか、本物が実在していようとは思わなかった」と驚愕したそうで、その結果、日本から「占いを完全に抹殺する」という動きは取りやめになったのです。

 

現在、日本で様々な占いが楽しめるのは圭堂老子のこの時の働きがあった事は否めません。

 

そして、時代は更に過ぎ、近代になるに連れ、其仙流の先人達が心配していた通りの状態へと占い業界は落ちぶれます。

 

「ありもしない事を主張する」「神秘思想に傾倒する」「正しい理論を壊し、間違った説を唱える者」「占いを正しく理解しない者」達が世に現れるだけでなく、それらの「偽物、紛い物」が社会に受け入れられ、市民権を得るという流れが生じたのです。

 

これ故に「其仙流」は「179代目に限り一子相伝の伝統を取り止め」広く「本物」を広げそれを以って、占い業界を一度綺麗に洗濯するという決断をしたのです。


【あとがき】

 

ざっくりですが、これが其仙流の歴史です、紹介仕切れない程の先人達の活躍もあり、まさに「仙人級、名人級、達人級」を輩出して来た古流派です。

 

其仙流は本気でこの曲がり切ってしまった、歪み切ってしまった、濁り切ってしまった占い業界をもう一度本来のあるべき姿にすべく活動をして行きます。

 

この業界は皆さんが思っている以上に不純であり濁ってしまっているのです、有り得るはずも無い、生霊やスピリチュアル、根拠無きオカルト霊感などで満ち満ちている状況です、このまま行くとそう遠くない将来に占いは「滅びるか、良くて遊びの延長となる」流れが非常に高くなります、その兆候はすでに現れています。

 

占いとは「自分が思い描く、想像する」様なものではなく、既に「厳然とその姿形、原理原則、在り様」などが定まっているものです、占いの中に生霊や霊感、神秘思想、スピリチュアリズムなどが出て来る様な場面はありません。

 

その様な人為的な考えでは「人も人生も運勢も救えないし、現実を生きて行く事は出来ません」占いはあくまでも「現実的なもの」なのです。

 

この「其仙流、占い教室」はこの様な歪み切ってしまった占い業界を修正する為に「本物」を知ってもらい、「本物の占い師」になって、この業界を是正する目的の為に開かれたものです、何が何でも「本物」を目指したいのならば是非お気軽にお問い合わせを。